最新記事

欧州難民危機

EU-トルコ協定の意義と課題

2016年5月10日(火)06時30分
佐藤俊輔

 EUの抱える根本的なジレンマは、EU法に定められた高い水準の人権保護と人の移動の制御という目標とをどの程度両立できるかという点であろう。

 高い法的基準を厳格に適用すればEU-トルコ協定が骨抜きとなり、人の移動を制御するという目的を達成することが難しくなる可能性がある。かといって人の移動の制御を優先すればEU法や国際法に抵触する可能性が高くなり、協定自体の正統性が危ぶまれてしまう。

シェンゲン圏の「平常への復帰」を導く

 それでもEUがこのような、やや強引とも思える政策を採用したのは、恐らくシェンゲン圏への影響をにらんでの事であろう。昨秋からオーストリアやドイツ、スウェーデン、デンマークなどが相次いで国境管理を導入したため、にわかにシェンゲン圏の危機が語られるようになった。

 EU-トルコ協定の採択には、内外やEUへの密航業者等へ向けて欧州の対外国境の復帰を印象付け、その強いメッセージにより人の移動を抑制すること、そしてそれを前提としてシェンゲン圏の「平常への復帰」を導くことという2重の狙いがあったように思われる。

 事実、欧州委員会はギリシャの状況について5月に評価を行い、その際に深刻な欠陥が見られる場合にはシェンゲン圏全体で国境審査の再導入を認める提案を行うとしていた。それ故ギリシャ・トルコ間の人の波を止めることには、単にそれだけに止まらない欧州統合プロジェクト自体の安定化という政治的意義が含まれていたのである。

これまでのところ大規模な送還は行われていないが

 UNHCRによれば協定発効から4月12日までに新たにギリシャへたどり着いた避難民6480人中で実際にトルコに送還されたのは326人とされており、これまでのところ懸念されていた大規模な送還は行われていない。

 しかし逆に言えばこの数字は大多数の避難民が送還を免れるためにギリシャで庇護申請を行ったこと、そして同国の難民収容所で長期にわたり滞留することを意味する。

 以前から危ぶまれていたギリシャの審査・収容能力を早急に高め、十分な人権保護を実現することがEUにとって火急の課題となる。またこれら庇護申請を行った避難民へEUがどのような対応をとるのか、改めて今後の行方を注視する必要があろう。


[筆者]
佐藤俊輔
東京大学法学政治学研究科博士課程を満期退学後、EUの基金によるエラスムス・ムンドゥスGEM PhDプログラムにより博士研究員としてブリュッセル自由大学・ジュネーブ大学へ留学。2016年4月より獨協大学・二松學舍大学・立教大学で非常勤講師。専門はEUの政治、ヨーロッパ政治、移民・難民政策。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米インフレ統計とFOMCに注目=今週の米株式市場

ワールド

アングル:気候変動でHIV感染拡大リスク、売春余儀

ワールド

キャメロン英外相、偽ウクライナ前大統領とビデオ通話

ワールド

デンマーク首相、首都中心部で襲われる 男を逮捕
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナの日本人
特集:ウクライナの日本人
2024年6月11日号(6/ 4発売)

義勇兵、ボランティア、長期の在住者......。銃弾が飛び交う異国に彼らが滞在し続ける理由

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    認知症の予防や脳の老化防止に効果的な食材は何か...? 史上最強の抗酸化物質を多く含むあの魚

  • 2

    堅い「甲羅」がご自慢のロシア亀戦車...兵士の「うっかり」でウクライナのドローン突撃を許し大爆発する映像

  • 3

    カラスは「数を声に出して数えられる」ことが明らかに ヒト以外で確認されたのは初めて

  • 4

    ガスマスクを股間にくくり付けた悪役...常軌を逸した…

  • 5

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 6

    ロシアの「亀戦車」、次々と地雷を踏んで「連続爆発…

  • 7

    ロシア軍が「警戒を弱める」タイミングを狙い撃ち...…

  • 8

    英カミラ王妃が、フランス大統領夫人の「手を振りほ…

  • 9

    ラスベガスで目撃された「宇宙人」の正体とは? 驚愕…

  • 10

    【独自】YOSHIKIが語る、世界に挑戦できる人材の本質…

  • 1

    ラスベガスで目撃された「宇宙人」の正体とは? 驚愕の映像が話題に

  • 2

    「世界最年少の王妃」ブータンのジェツン・ペマ王妃が34歳の誕生日を愛娘と祝う...公式写真が話題に

  • 3

    ウクライナ水上ドローンが、ヘリからの機銃掃射を「回避」してロシア黒海艦隊に突撃する緊迫の瞬間

  • 4

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃の「マタニティ姿」が美しす…

  • 5

    我先にと逃げ出す兵士たち...ブラッドレー歩兵戦闘車…

  • 6

    キャサリン妃「お気に入りブランド」廃業の衝撃...「…

  • 7

    「サルミアッキ」猫の秘密...遺伝子変異が生んだ新た…

  • 8

    カラスは「数を声に出して数えられる」ことが明らか…

  • 9

    アメリカで話題、意識高い系へのカウンター「贅沢品…

  • 10

    認知症の予防や脳の老化防止に効果的な食材は何か...…

  • 1

    ラスベガスで目撃された「宇宙人」の正体とは? 驚愕の映像が話題に

  • 2

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 3

    ウクライナ水上ドローンが、ヘリからの機銃掃射を「回避」してロシア黒海艦隊に突撃する緊迫の瞬間

  • 4

    「世界最年少の王妃」ブータンのジェツン・ペマ王妃が…

  • 5

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 6

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 7

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃の「マタニティ姿」が美しす…

  • 8

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 9

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 10

    ロシアの「亀戦車」、次々と地雷を踏んで「連続爆発…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中