コラム

ドキュメンタリーの名匠が描くイラク、シリア、クルディスタンの国境『国境の夜想曲』

2022年02月10日(木)16時30分

では、本作でロージはどのような環を描いているのか。筆者がまず注目したいのは、母親がISISに連れ去られた娘からの音声メッセージを聞く場面だ。他の人物たちは、それがかつての刑務所であれ精神病院であれ、少なくとも彼らがどこにいるのかわかるが、彼女だけは暗闇のなかにいる。爆撃で崩れた建物が並ぶ町の光景と暗闇の彼女が交互に映し出されるので、その町のどこかにいるとも考えられるが、明らかに他の人物とは撮り方が違う。

プレスにはそのことについて何の説明もなかったので、ネットで調べてみると、複雑な事情があることがわかった。

ロージは旅の初期にイラクで、ISISに拉致された女性の夫と出会い、彼女の音声メッセージが残るスマホを見せられた。ただ彼は安全上の理由で自身が映画に出ることを望まなかった。その後、ロージはイラクに戻るたびに彼に会ったが、状況は変わらなかった。だが3年後、最後に会ったときに彼から、女性の母親が国を離れて、ドイツのシュトゥットガルトで暮らしていることを教えられた。ロージはその母親と連絡をとり、スマホを預かって彼女のアパートを訪ねた。そして彼女が語る胸が張り裂けそうな話に何時間も耳を傾けたあとで、アパートの寝室でこの場面を撮影したという。

沈黙によって物語が語られる

そんな事情を踏まえてみると、ロージが求める物語がどのようなものであるのかがよくわかる。彼は広い国境地帯に環を描いていくことによってそこにたどり着いた。その映像も環の一部なので、場所がドイツであることは重要ではない。映像のなかの母親は一言も発せず、ただ静かに涙を流す。

この場面も含め、本作ではしばしば沈黙によって物語が語られる。なかでもふたりの人物の沈黙は特に強い印象を残す。

バイクで湿地にやって来たハンターは、夜の湿地をボートで移動しながらデコイを浮かべていく。遠くにある油田の炎が空を赤く染め、どこか離れた場所で行われている激しい戦闘の銃声が響いてくるが、彼は鴨がおびき寄せられるのをじっと待ちつづける。そこには、鮮やかな映像で日常と非日常が隣り合わせにある世界が、見事に集約されている。

そしてもうひとりは、不在の父親に代わって家族を支える少年だ。彼は網で魚を捕り、銃で鳥を仕留め、草原にやって来るハンターたちのガイドをして小銭を稼ぐ。ロージは彼と家族に密着し、食事など日常までとらえているが、少年が言葉を発するのはハンターと交渉する一瞬だけで、徹底して彼の表情に焦点を合わせている。そこには、不確かな未来と向き合う複雑な感情を見ることができる。

ロージは、政治や歴史に縛られることなく、出会った人と人を結ぶ環を描き、分断された国境地帯に独自の空間を切り拓く。「国境という認識を無効にする」という発想は必ずしも珍しいものではないが、ロージでなければこのようにひとつの世界にまとめ上げることはできなかっただろう。

《参照/引用記事》●Three Years on the Borders Between Iraq, Kurdistan, Syria and Lebanon: A director's thoughts by Gianfranco Rosi | Cartography

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

岸田首相、「グローバルサウスと連携」 外遊の成果強

ビジネス

アングル:閑古鳥鳴く香港の商店、観光客減と本土への

ビジネス

アングル:中国減速、高級大手は内製化 岐路に立つイ

ワールド

米、原発燃料で「脱ロシア依存」 国内生産体制整備へ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 3

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を受け、炎上・爆発するロシア軍T-90M戦車...映像を公開

  • 4

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 5

    こ、この顔は...コートニー・カーダシアンの息子、元…

  • 6

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前…

  • 7

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 10

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 5

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 6

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 7

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 10

    メーガン妃の「限定いちごジャム」を贈られた「問題…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story