コラム

学者による政策提言の正しいあり方──学術会議問題をめぐって

2020年10月18日(日)13時00分

日本学術会議による増税提言

日本学術会議がこれまで行ってきた活動の問題点を示す、今回の一件以降に表面化した事例の一つに、東日本大震災後の2011年4月5日に日本学術会議東日本大震災対策委員会が公表した「東日本大震災に対応する第三次緊急提言」における復興増税提言がある。

「国は緊急対策の補正予算を組み、国家予算の組み替え、既定の財政支出の節減を図るとともに、復興のための国債の発行や増税・新税(たとえば開発復興税)について、制度の設計を進めるべきである。国債発行に関しては財政規律の問題を考慮し、増税は、国民的な復興努力の一環として位置づけ、世代間における負担の公平性を図るべきである」というのが、その当該部分である。

復興増税は、当時政権を担っていた旧民主党の基本政策であった。そしてその政策は、2011年12月に公布された「東日本大震災からの復興のための施策を実施するために必要な財源の確保に関する特別措置法」に基づく「復興特別法人税及び復興特別所得税」として、実際に現実化された。ウィキペディアの項目「復興特別税」には、それが上の学術会議提言に基づくものであったことが記されている。そうであるとすると、これはあるいは、日本学術会議の提言が実際に政府によって採択されて実現された数少ない実例の一つであったのかもしれない。

しかしながら、日本学術会議のこの増税提言は、客観的にみると、まったく分をわきまえないものであった。というのは、復興増税問題はこの時、財政優先か経済優先かの価値判断をめぐる、一つの明確な政治的争点になっていたからである。

実際、当時の与党民主党と野党自民党には増税派と反増税派がそれぞれ存在しており、両派の間で錯綜した政治的駆け引きが展開されていた。のちに「消費税増税をめぐる三党合意」が成立した経緯が示すように、この旧民主党政権の時代には、民主党も自民党も執行部はほぼ増税派によって占められていた。他方で、「増税によらない復興財源を求める会」という有力な超党派議連も存在しており、2011年6月に公表されたその声明文には、民主党113名、自民党65名の衆参国会議員が署名していた。この会の動向は当時の政治状況の中ではあくまでも傍流ではあったが、幹事長は山本幸三、会長は安倍晋三が務めていたことから明らかなように、それは結果としてのちのアベノミクスに至る歴史的契機となったのである。

こうした政治状況を踏まえて改めて振り返ると、日本学術会議がこの時、有権者の価値判断こそが最も優先されるはずの政治の本丸に、いかに無邪気かつ無神経に口出しをしていたのかが分かる。おそらく増税派はこの時、学術会議の増税提言を印籠のように振りかざすことによって、あたかも増税は日本の専門家全体の一致した結論であるかのように喧伝することができたであろう。学術会議はつまり、専門家の代表を僭称して中立を装いながら、実際には一方の政治的立場に明確に加担していたわけである。それは、どの点から見ても明らかに政治的な行動であった。

学術と政治をどう切り分けるか

増税派と反増税派との対立は、基本的には財政優先か経済優先かの価値判断をめぐる政策イデオロギー上の対立である。そうである以上、その点に関して専門家が全体として合意に達するなどということはあり得ない。実際、国内でも海外でも、増税派と反増税派、緊縮派と反緊縮派は、学界や論壇で絶えず相争っている。科学者や専門家たちは確かに、現実の科学的・実証的な把握に関して合意に達することはできる。しかし、その政策的価値判断において合意に達することはめったにないし、またその必要もないのである。

日本学術会議の最大の問題は、本来そのように科学的観点のみによっては合意不可能であるはずの政策的な判断を、あたかも専門家による科学的観点からの総意であるかのように装って一般社会に提示している点にある。日本学術会議はおそらく、自らが結果として政治的領域に踏み込んで、一方のイデオロギーに深く加担していながら、そのことの自覚をまったく持っていないのである。

学術会議のみに限らず、政策提言を行う専門家はしばしば、政策的価値判断を科学的判断と混同しがちである。しかし、どのような政策提言も、それが究極的には必ず何らかの価値判断に基づくものである以上、「〜である」という科学的実証の領域と「〜すべきである」という規範の領域を明確に切り分けて議論することが必要である。それはいわば、専門家であるための最低限の条件である。両者の混同は即ち学問の自己否定を意味することは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーがその古典的小論『職業としての学問』(1919年)で指摘したとおりである。

結局のところ、日本学術会議がそもそも政治的目的を付与された存在であり、実際に無自覚にせよそのように振る舞ってきた以上、その組織は政府の政策的意図と本来無関係ではあり得なかったのである。にもかかわらず、それをあたかも純粋な学術組織であるかのように言い募って「政府からの独立」や「学問の自由」を主張するのは、それこそ統帥権の独立を楯に政治介入を繰り返した旧軍の行動そのものである。

仮に日本学術会議がその時々の政府の政策的立場とは無関係に超越的立場を貫きたいのであれば、組織として政府から完全に独立するか、あるいは完全に非政治的な存在に自己限定するしかない。実際、もしそれが当初から独立した組織であったならば、平和絶対主義、環境絶対主義、憲法絶対主義、財政再建絶対主義などのどのような絶対主義イデオロギーを報じていたとしても、政府は何も言うことはできなかったであろう。個人的には、仮にも科学的真理こそが最重要であるはずの科学者の団体が特定のイデオロギーを報じることに違和感を持たないわけではないが、それはあくまでも組織の内的な問題である。一般の研究者にとっては、なるべくそのようなものに係わりをもたなければよいだけの話であり、おそらくそれで問題は何もないのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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