コラム

ロシアのウクライナ侵攻と日本経済にとっての真のリスク

2022年02月25日(金)10時30分

ただ、先進国の場合、通貨価値が、国力や経済的な豊かさが比例的に関係するわけではない。実質実効円レートの過去の推移を見れば、1995年の円高進行時に実質実効ベースの円は過去50年で最も上昇したが、1990年代後半から日本経済は、長期デフレと低成長局面にシフトしている。

当時既に日本ではデフレは静かに始まっていた中で、為替市場では大幅な円高が起きた。一方、1980年代の米英での高インフレの記憶が残る中で、バブル崩壊後の日本銀行の金融政策は引き締め的に作用していた。そして、1990年代後半から2000年代初頭まで、「通貨高は強い国の象徴」という不可思議な信条を抱く経済官僚によって、金融財政政策が運営されていた。

日本経済の実力に不相応な「行き過ぎた円高」が起きて、それがデフレと低成長の問題を深刻にした。この政策運営の失敗が、先進国の中で日本だけが長期デフレをもたらした、と筆者は総括している。その後も2000年代にかけて経済の低成長が長引いたので、最も豊かな先進国の一つであった日本は「普通の先進国」となり、近年では台湾、韓国に経済的な豊かさではほぼ追いつかれている。

つまり、経済成長率などの本当の実力相応に、通貨円の価値が程よく調整されるマクロ安定化政策が適切に行われるか否かが、経済的な豊かさである「日本経済の実力」を決定的に左右する。円の価値そのものは国力の一つの側面でしかなく、むしろ円の価値が高過ぎたデフレ期に、日本の豊かさが年々失われたことが、日本が経験した痛恨の失敗だと言える。

1970年代と比べれば米国の実質実効ドルも安くなったが......

なお、米国の実質実効ドルを見ると、1970年代初頭と比べるとドルは安くなっている。この意味では円とドルは同じだが、ドル安によって経済貧しくなったという議論は米国ではほとんど聞かれない。また1990年代頃と比べると現在はドル高になっているが、そもそも過去の一時点と、現時点の通貨価値を比較することにほとんど意味はない。

ただ、過去50年のドルと円の違いは、大きく変動した円と比べてドルの変動率が小さかったことである。1990年代から2021年前半までのFRB(連邦準備理事会)の金融政策によって、2%前後のインフレと持続的な経済成長が実現した。経済政策が失敗する局面が目立った日本の様には、ドルが大きく変動しなかったことを意味する。米国では適切な金融政策を反映して通貨価値が程よく動いたので、2012年まで金融政策が失敗した日本と異なり、経済的な豊かさが保たれたと言えるだろう。

日本で、経済的な観点でもっとも懸念すべき点は......

現在の実質実効ベースの円は、2015年半ばとほぼ同様の水準である。2013年以降の日銀の金融緩和政策が続いているので、円が経済情勢に応じて安定しており、2012年以前よりはむしろ望ましいと言える。この点を見過ごして、「円の実力の低下」を強調する見解はかなり偏っているのだが、こうした記事が掲載される経済メディアにおいてこそ「実力の低下」が起きているように筆者には見える。

また、こうした報道が増えていることには、岸田政権となって、マクロ安定化政策の主導権が、緊縮志向を抱く経済官僚に移りつつあることが影響しているのかもしれない。安全保障の専門家などが指摘するように、ウクライナ情勢の緊迫化が東アジアの地政学リスクを高める点を我々は警戒すべきだろうが、経済的な観点で懸念すべき点は、円の実力の低下ではなく、岸田政権においてマクロ安定化政策が再び機能不全に陥ることだろう。

プロフィール

村上尚己

アセットマネジメントOne シニアエコノミスト。東京大学経済学部卒業。シンクタンク、証券会社、資産運用会社で国内外の経済・金融市場の分析に20年以上従事。2003年からゴールドマン・サックス証券でエコノミストとして日本経済の予測全般を担当、2008年マネックス証券 チーフエコノミスト、2014年アライアンスバーンスタン マーケットストラテジスト。2019年4月から現職。著書「日本の正しい未来」講談社α新書、など多数。

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