コラム

無徳無信 到此一游 無栄無恥 無地自容

2013年05月31日(金)08時00分

 胡錦濤が国家主席を務めていたころ、中国で「八栄八恥」というスローガンがあちこちに貼りだされて話題になった。文字通り胸を張れること、恥ずかしいことをそれぞれ8つ並べたもので、こんな調子だ。

「以熱愛祖国為栄 以危害祖国為恥
 以服務人民為栄 以背離人民為恥
 以崇尚科学為栄 以愚昧無知為恥
 以辛勤労働為栄 以好逸悪労為恥
 以団結互助為栄 以損人利己為恥
 以誠実守信為栄 以見利忘義為恥
 以遵紀守法為栄 以違法乱紀為恥
 以艱苦奮闘為栄 以驕奢淫逸為恥」

 まぁ、祖国を愛し、誠実で、法律を守るのは栄光で、祖国を害し、無知で違法なことは恥......などと漢字が並ぶ。これらの漢字の意味が分かるならそんなこといちいち言われなくても分かっているだろうと思うが、中国では政治のトップがこうした訓戒を垂れるのが任期中の重要任務の一つになっている。毛沢東ならそれはイデオロギー丸出しのスローガンだったが、胡錦濤の時代には儒者のような道徳観になった。ご覧のようにそこにはマルクスもレーニンもいない。

 だが、習近平が政権をとってからまた微妙に変わってきている。それが何を指すのか、どんな時代になるのか、まだ激論の最中なのだが、そんな中、先週「人民網のアメリカサイトに『無徳無信のアメリカ人』というテーマの連載コラムがある」という情報がネットで流れ、注目された。

「無徳無信」、つまり道徳がなく信用できない、という意味。「人民網」とは中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」が運営しているウェブポータルで、アメリカや日本など主要国向けにチャンネルを設け、中国語だけではなく当該地の原語を使って記事を配信している。つまり、人民網の論調はある意味共産党の意図を組んだものとみなされる。そこにこのコラムが2カ月も前から中国語だけではなく、わざわざ英語にも翻訳されて、「中国人がアメリカで遭った、道徳的に劣る出来事」をあげつらっていたというのだ。

 中国産マイクロブログ「微博」は大騒ぎになった。「こんな恥ずかしいことはない。読者を焚きつけて他国の市民を攻撃させるなんて。ぼくはここで謝罪したい。同じように謝罪する人は転載を!」という声が多くの人に支持されたほか、著名コラムニストの五嶽散人さんは「全国の人民が自分とこの政府を監督して欲しいと願っているその時に、我々の『舌』はアメリカを監督してやがる。(中国)政府の官吏の家族が大量にアメリカに暮らしていても、いくらなんでも自分もアメリカメディアのフリしてアメリカを監督して、人様にさらなる麗しい環境づくりをしてやることはないだろう?」と強烈に皮肉った。

「そうさ、アメリカ帝国の官吏は汚職まみれで、嫁や子供を他国に送って麗しい生活を楽しませ、自分は国内で妾を囲って幼女を買う。確かに道徳などない! アメリカ帝国政府は口では人民のために服務すると言いながら、あれやこれやと人民から税金を絞りとり、自分は特別供給の食事を取りながら市民には下水油に毒コメを食わせている。確かに信用ならんよな!」......これはもちろん、「アメリカ」に借りた政府批判である。

 また、メディア関係者からは、「ボストンマラソンの爆破事件の時、同僚が国際電話でボストンの警察署に事情を尋ねた時、相手は証明書を見せろとか、質問の一覧を先に提出して申請しろなどと言わずに、その場ですぐに質問にきちんと答えてくれた」と、記者証を出せとか申請手続きがどうとかいう中国の公安局を皮肉った。

 中国政府は、アメリカが毎年、中国の人権状況についてのレポートを出していることに反発し、「アメリカ人権レポート」なるものを発表している。対抗意識丸出しなところが中国らしいが、今では年間すでにのべ100万人を超す人たちがアメリカに行く時代なのだ。以前のように政府系メディアの「ヘイト」の撒き散らしをあっさり信じる人たちは減ってきている。特にインターネットを使いこなすレベルの人たちになると、さらに渡米経験率はどっと高くなる。そんな彼らは政府系メディアに教えてもらわなくても、アメリカの良し悪しを自分の経験から知っている。

 政府系メディアのそんな価値観の押しつけに、その後国内のその他ポータルサイトからも同コラムを「差別だ」「ちょっとした不平不満を拡大して騒ぎ立てるなんてみっともない」と批判する記事が続いた。そのうちの一つ、網易網は、各国企業の世界的な信用度調査を紹介し、「中国の企業がアメリカ(全体8位)よりも30ポイントも低い(同15位)」ことを取り上げ、暗に「我々がアメリカを道徳も信用もないといえる立場にあるか」と問いかけた(ちなみに、同記事では日本企業はアメリカよりも3ポイント高く7位につけている)。

 人民網側もさすがにあまりの国内の反響にマズいと思ったのか、その後記事からはコラムタイトルの「無徳無信のアメリカ人」という文字が消滅し、記事だけがベタ記事として残っている。

 だが、この騒ぎがまだ延焼中に、中国人がとアタマを抱える事件が起きた。

 エジプトを訪れた中国人観光客が、観光地ルクソールにある3500年前の遺跡の一部に、中国語で「到此一游」(ここ来た記念に)と本人の名前らしい「丁錦昊」という文字が彫り込んであるのを発見、憤って微博に投稿したのだ。微博はあっという間に燃え上がり、その書き込みはそのうちに10万回も転送された。そして名前がそれほどありふれたものではなかったこともあって、ネット上で「犯人あぶりだし」が始まった。するとその日のうちに中国全土に同姓同名が7人おり、その中からエジプト旅行の経験などでふるいにかけた結果、なんとそれが南京市に住む15歳の少年だったことが割り出されたのだ。

 実のところ、「犯人」が少年だとわかった直後、批判の声は一瞬ひるんだ。そこには「相手は子供か......」という諦めにもにたムードが漂った。だが、またすぐに「子供だからといって許されるわけではない」「エジプト旅行できるような、余裕のある家庭の子供がそのレベルなのか」「親は一体何をしてるのか」と声が上がると、親は匿名のまま南京市の新聞を通じて「責任は自分たちの教育にある。申し訳ない」と謝罪声明を発表した。

「犯人は子供」とわかった時点から一部では「もういいじゃないか」的なムードとともに、「じゃあ、万里の長城に落書きしている国内外の旅行者をみんなひっ捕らえろ!」という声も上がり始めた。確かに、万里の長城など最初にわたしが訪れた1980年代はほとんど落書きなど見なかったが、1990年代に再訪したときは声を失った。それから15年近くが経って現地はどうなっていることやら、と想像もしたくない。

「これこそ『歴史』に刻まれた恥辱!」「無地自容(穴があったら入りたい)」などの声の中に「丁錦昊クンを責めているお前らはこれまでに一度も落書きをしたことがないとでも言うのか?!」と問いかける声もあった。「ない!」「絶対にない!」「恥ずかしくてできん!」という声もかなり集まったが、それでも多くの人たちが自分のこれまでの経験を振り返ると落ち着かない気分になったようだ。

「周知の通り、四文字の漢字名を使うのは日本人だけだ。だから、『丁錦日天』は間違いなく日本人だ。さらにわざと中国語で『到此一游』と書き込み、責任を中国人におっかぶせようとしている。道徳もあり信用もある中国人が絶対にこんなことをするわけがない」――これは日頃から北朝鮮をネタに、自分たち中国人を自虐的に語る内容で人気の微博ユーザーのつぶやきだ。彼はこうして人民網の「無信無徳のアメリカ人」コラムを引き合いに出して皮肉った。

 確かにあまりのタイミングの良さに、誰が「無徳」で誰が「無信」なのか。「外国の遺跡への落書きは恥だが、国内の遺跡の落書きを今まで問題にして来なかったことこそ、我々の『恥』ではないのか」という声も上がった。

「文化を大事にしないのは、文化大革命(1966〜76年)時に伝統文化を否定して各地の遺跡を破壊して回ったから」という声の一方で、「西遊記の孫悟空も菩薩の手に『到此一游』と書いたという。これは中国の伝統文化だ」という説明も出現した。さらに、「昔から政治指導者は行く先々で揮毫し、訓示を垂れてきた。権力への長年のあこがれからその真似をしたがる人が跡を絶たないのも問題だ」という人もいる。さらには、「古い住宅、古い建造物が都市開発の名の元にあっという間に取り壊されてしまうこの国で、遺跡や古いものを大事にするような文化が育つわけがない」という声もある。

 挙句の果てに、30年前に敦煌の遺跡で撮られたという、やはり「到此一游」の文字と自分の勤め先である政府系メディア名と名前とともに書き残した記者の落書き写真が暴露され、社会的には「知識人」と見られているジャーナリストですら......とまた「資質論」が沸騰した。

 一方で丁錦昊くんが所属する中学校のウェブサイトがハッキングされ、そこにアクセスするとまず「到此一游 丁錦昊」というポップアップが出現するようになったという。

 それにしても、子供連れでエジプトまで旅行する丁くんの親とは一体何者なのか。メディアを通じて謝罪声明を出したものの、子供の名前まで知れ渡っているのに親の詳細は一切伝わってこない。そこから、「南京のメディア関係者か政府関係者ではないか。うまく自分の情報が流れだすことをコントロールすることができる立場にいる人間だ」というウワサすら流れている。

 さらには子供の情報をネットユーザーが探し当てたことを「プライバシーの侵害だ」と叫ぶ人と、「自分から名前を残したんだからプライバシーも何もない」という論争も起こっている。

 騒ぎを受けて国家旅游局は近く、国民に向けて「旅游文明行為ガイド」を交付して、「文物古跡に落書きをしたり、触ったり登ったりしてはならず、写真撮影は規定を守ること」などという文面を付け加えるそうだ。だが、人々が語っている文化財軽視の原因解決に向けて、真剣に取り組むという動きはまだまったく見られない。

 無徳無信は一体だれなのか――

 アメリカに対抗意識を燃やし、鼻息あらく他人を貶めるよりも、まずは文化大国を自称する自国の大事な文化遺産をもっともっと大事にする態度を見せてもらいたい。今や急速に古い文化が失われていく一方で、まだ新しい文化すら出現していない状態で、まず道徳や信用をきちんと立て直す必要はこの国の方こそあるはずなのだが。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

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