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摩天楼を独り占めにした男

He Had New York at His Feet

今はなき世界貿易センタービルに惚れ込んで綱渡りを強行した大道芸人の記録『マン・オン・ワイヤー』

2009年5月28日(木)16時02分

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これぞ、絶景。南には自由の女神とベラザノ橋。東の地平線では濃紺の空が徐々に淡みを帯び、夜が明けようとしている。

 男が腰を下ろした地上400メートルの高み──当時、世界最高の高さを誇っていた世界貿易センタービルの屋上──からは地球の丸さがわかり、はるか下方にはマンハッタンのざわめきが聞こえる。彼がしていることは違法で、逮捕は時間の問題だ。それでも景色を見ずにはいられない。やがて、男はビルの絶壁から足を踏み出した......。

 45分の間、フィリップ・プティは世界貿易センターの北棟と南棟の間に渡したワイヤーの上を、行ったり来たりした。時は74年、このツインタワーの完成は何カ月も先のことだ。

 プティはビルの間を4往復。シャツをつかまれそうな距離まで近づいて後ずさりするなど警官をからかったため、逮捕時の扱いは手荒かった。後ろ手に手錠をかけられて小突かれながら、プティは階段を下りた。最も危険だと感じたのは、このときだったという。

 34年後の現在、世界貿易センターのタワーはないが、ドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』(日本では6月13日公開)が、プティの手柄(本人いわく)と彼が眼下に見下ろしたニューヨークを浮かび上がらせる。

 タワーの崩壊について、映画は一度も触れない。だが観客はその末路を知っているだけに、町中でおどけるプティの姿や今とは隔世の感のあるニューヨーク、そしてアメリカに胸を突かれる。

 今年6月にも、52階建てのニューヨークタイムズ・ビルに3人の男がよじ登ったが、プティのときほどの興奮を呼び起こすことはなかった。「74年のニューヨークは、今よりずっと不潔で心の狭い町だった」と、プティの離れ業を昔の映像と再現ドラマで振り返ったジェームズ・マーシュ監督は語る。「一方でもっと夢があった。解放感があった。そうした無垢さを、私たちは失ってしまった」

テロと無縁の記憶を描く

 プティはフランスの大道芸人。10代で世界貿易センターの建設計画を知り、歩いて渡ることを夢見た。ビルが着工するころには、パリのノートルダム寺院やシドニーのハーバーブリッジの上で綱渡りを成功させていた。

 身分証明書を偽造し、つけひげで変装、スーツケースに無線や弓矢を隠してアメリカに入国──作戦は念入りであると同時に、ほほ笑ましいほど素人っぽい。

 プティと仲間たちは作業員を装い、建設中の両棟に忍び込んで最上階に上った。日没を待ち、ワイヤーを結んだ矢を一方のタワーからもう一方のタワーに放った。

 この計画を思い立った理由は今でもわからないと、プティは言う。計画中は、ワイヤーの上に立ったときのことなど考えなかった。

 「ゴールにいたる道筋が大事だ」と、プティは言う。「結果は意味をもたない。私は向こう端で『やった!』と勝利の雄たけびを上げるような人間じゃない。記録を達成したり、金持ちの有名人になるのは目的ではなかった」

 実際には何千人もの見物人が見上げていたが、綱渡りは私的なプロジェクトだった。「タワーと親密な交流を楽しんだ」

 好むと好まざるとにかかわらず、この綱渡りでプティは名声を得た。以降、彼はさまざまな離れ業を成功させたが、人々は今も世界貿易センタービルの綱渡りを思い出す。01年9月11日には、隣人が「あなたのビルが崩れ落ちている」と教えてくれた。

 プティが仲間と世界貿易センタービルの征服をもくろむ過程は、9.11のテロリストを連想させるかもしれない。だが対比させたつもりはないとマーシュは言う。

「74年、このフランス人グループは確かに犯罪を企てたが、それは建築物を芸術空間に変える犯罪だった。無理やりテロとこじつけるようなことはしたくない。『マン・オン・ワイヤー』はタワーがもつ、テロとは無縁の思い出をよみがえらせる映画だ」

私は決して落下しない

 プティたちが偉業を成し遂げた当時から、ニューヨークは変わってしまったかもしれないが、現在58歳の綱渡り男は歳月の流れを感じさせず、若々しい。

 プティはいまニューヨーク州東部のキャッツキル山脈にある小さな家に暮らし、庭で毎日数時間、綱渡りの練習をする。リビングに座っているときも、肉体を完璧にコントロールできる人間ならではの自信をみなぎらせ、雄弁なジェスチャーを交えて思いを伝える。

 本人によれば逮捕歴は500回以上で、根っからの犯罪者だというが、綱渡りのパフォーマンスや本の執筆、講演で生計を立て、何不自由のない生活を送っている。ワイヤー上で一輪車に乗ったり、宙返りをしたりする芸には否定的だ。プティにとってそんな綱渡りはテクニックの誇示にすぎず、芸術ではない。

 安全ネットを使おうと思ったことはない。「私は絶対に落下しない。もちろん、地面に着地したことは何度もあるけれど」

 落下するどころか空高く飛翔するプティを、『マン・オン・ワイヤー』は見せてくれる。

[2008年9月10日号掲載]

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