コラム

安倍元首相の死に思う「幸せ」の意味

2022年07月30日(土)11時31分

愛犬「ぴ」と二人三脚で歩む幸せ(筆者提供) SENRI OE

<平和なはずの日本で起きた突然の暗殺事件。人生の儚さを前に、NY在住の大江千里が問い直す「幸せとは何か」――>

誰かにいきなり奪われる命。7月8日、安倍元首相が殺された。誰も想像さえしなかった出来事が起き、日本社会は不安と、言いようのない無念さに襲われた。

普段は起きないことが起きたことへの衝撃と、それをどう消化すればいいのかという、悶々とした気持ち。日本を良くするため、全力で遊説をする最中の襲撃であった。それがあんなふうに簡単に命が奪われてしまう様をまざまざと見せつけられると、いやでも応でも人の人生の儚さや、人にとっての幸せとか何かをふと考えてしまう。

平和な日本であるはずなのに――ああ、トランプ以降のアメリカに渦巻く、複数の階層が対立するような社会に日本も陥ってしまったのだろうか。

言いようのない「不安」は何もいま始まったことでもないだろうに、何やらこの事件でいろいろ考えれば考えるほど、なんだか闇の中にいるような気持ちになってしまう。

例えばふと、幸せとは何かを考える。オペラをいっぱい見るお金があるとか、都市部のタワーマンションに住んでいるとか、独り身で自由に外食ができるとか、家族も自分も健康であるとか、幸せの形は星の数ほどある。

僕はシンガーソングライター時代、多くの人に囲まれていたにもかかわらず常に不安で、満たされず、幸せではなかった。やりがいのある仕事をやっているのに心はもっともっとそれ以上を求め、常に自分を不安な場所へと押し上げていたように思う。

そのうち、40代後半で母が亡くなり犬が亡くなり友人が亡くなった。喪失というか、頭で人生は一回で賞味期限があると分かっていても、ヒリヒリするほど身に染みたのは初めてだった。10代の頃にやり残したもう1つの夢であるジャズを学ぶため、2008年、47歳でアメリカへ渡ったのはそういう経緯だ。

あれは賭けだった。人生をもう一度始めるための。ジャズ学校に通い始めると黒板の文字が見えなかった。老眼が始まっていたのだ。

僕と「ぴ」(という赤ん坊の愛犬)という1人と1匹で、4階まで階段で歩いて上る贅沢ではない部屋での生活。あれは突拍子もない変革だったが、「目標」が定まり身も心も軽くなった。

今回の事件が後世に意味するもの

幸せとは何か? といま聞かれれば、形じゃないと答えられる自分がいる。形である必要ももはやない。心に余裕があると迷いが起こるものだが、夢中で生きていると幸せとは何かすら考えない。もしかしたら、幸せなど分からなくても生きていけることが「幸せ」なのだろうか。

最近、ニューヨークでは銃による事件が多発している。散歩をしている最中に目の前で若い男の子が銃でウーバーの配達人を脅し、逮捕される現場に通り掛かる。ニューヨークで生きるということは、常にリスクと背中合わせだ。

安倍元首相の非業の死で言い得ないダメージを負い、まだ霧の中にいるような気分の方は多いだろう。世界中の人たちの心に影を落とした今回の事件が、後々に「あれが世界が変わる分岐点だった」と語られるような日が来るのだろうか。

プロフィール

大江千里

ジャズピアニスト。1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー後、2007年末までに18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年、愛犬と共に渡米、ニューヨークの音楽大学ニュースクールに留学。2012年、卒業と同時にPND レコーズを設立、6枚のオリジナルジャズアルパムを発表。世界各地でライブ活動を繰り広げている。最新作はトリオ編成の『Hmmm』。2019年9月、Sony Music Masterworksと契約する。著書に『マンハッタンに陽はまた昇る――60歳から始まる青春グラフィティ』(KADOKAWA)ほか。 ニューヨーク・ブルックリン在住。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

日経平均は反落で寄り付く、米金利上昇で 半導体関連

ビジネス

FRB当局者、利下げ急がない方向で一致 インフレ鈍

ビジネス

訂正-NY外為市場=ドル上昇、米指標やFRB高官発

ビジネス

中東情勢悪化、世界経済に大きなリスク=独財務相
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の衝撃...米女優の過激衣装に「冗談でもあり得ない」と怒りの声

  • 3

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 4

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 5

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 6

    「イスラエルに300発撃って戦果はほぼゼロ」をイラン…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負け…

  • 9

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 10

    ヨルダン王女、イランの無人機5機を撃墜して人類への…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 4

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 5

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 8

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 9

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 10

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story