コラム

一人っ子政策の舞台裏

2011年09月20日(火)07時00分

 2年前、80年代生まれの一人っ子である陳さんはわざわざアメリカで息子を生んだ。帰ってきた彼女が「子供はもう一人欲しいわ」と言うのを聞いて、わたしはくらくらっとめまいに襲われた。

 彼女の両親は地方の軍人だ。北京の大学を卒業して香港系の会社に勤めた彼女は数年前に大学時代の同級生と結婚。子供を授かったことが分かってすぐにアメリカで出産することを決め、わたしがその計画を聞いたのも出産予定日の数ヶ月前で、その準備は着々と、あっけらかーんと進められていた様子がうかがえる。

 もちろん、アメリカでの出産の目的は子供に米国籍取得のチャンスを与えるためだ。自分自身は勤め先の香港にある本社に異動したいとは思わないときっぱり答える彼女も、子供に中国以外の選択肢を残してやりたいと考えている。そして彼女の母親もアメリカでの出産に付き添ったという。

 一人っ子政策は中国の国策ではないのか? 家も車ももう手にしていて中国の経済成長に満足しているはずの、80年代生まれの「持てる層」がなぜ自分の子供の外国籍取得にこだわるのか? さらに、軍人である彼らの親までそれを支援するとは...

 中国誌「南都週刊」が伝えたところによると、現在アメリカにはニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどを中心に、「壁越え」出産をする中国人の妊婦のための受け入れセンターがある。「壁越え」とは、もともと中国国内に張り巡らされた規制や条件、環境という「壁」を飛び越えて自由な世界に触れるという意味のインターネット用語だが、今では出産にすら同様の意味で転用されているというところがなんとも絶妙である。

 これら「月子センター」と呼ばれる妊婦受け入れセンターは、もともとアメリカに移民し、産褥期「月子」の面倒を見てくれる親族がそばにいなかった台湾人妊婦を受け入れていたのだが、中国からの妊婦の引き受けを始めた。今ではその連絡及び渡航手続きなどを代行する会社が中国国内に100社ほどあり、また実際にアメリカで出産した親たちがブログなどでその経験を紹介するので商売は増え続けているそうだ。

 特に2008年の金融危機後は台湾からの顧客が激減し、一方で同年6月にアメリカが中国公民の旅行ビザ条件を引き下げたのをきっかけに中国の客がどっと増えた。それまでの多くは第二子出産を目的していたのが、現在は陳さんのように第一子を生むためにやってくる人の割合が増えている。そしてそんな顧客たちの多くが北京や上海、広州、あるいはその他の省の大都市でビジネスをしたり、外国企業で高給をもらっていたり、有名人や医者や弁護士などといった社会的地位の高い人たちだという。

 実のところ、「外国籍の子供を生む」のはそれでもまだまだ「高嶺の花」だ。現実の中国では今も、第二子出産の権利を求めて抗争を続けている人たちがたくさんいる。そして実際に第二子を産んだために教師や公務員がその職を追放されたり、さらには生まれた子供を親戚に預けたり、あるいは第一子を目に見えない障がい、たとえば心臓疾患を持つと登録して第二子出産のチャンスにかける人なども少なくない。

 長い間、「一人っ子政策」に反対の声をあげて来た元中国青年政治学院副教授の楊支柱氏も自身の第二子出産で職を追われた上に、北京市海淀区政府に24万元あまり(約300万円)の「社会扶養費」の支払いを求められた。これは同氏の給料を基準にしたものではなく、「北京市都市住民の平均可処分所得」の9倍という額。職を失った上にこんな額の罰金が払えるはずもない。彼は「第二子出産の罰金支払いのために身を売ります。身を売れば子供を育てられないので、64万元(約800万円)と引き換えに奴隷として働きます」と書いたプラカードを下げ、北京の大学が集中する地区に立ち、大きなニュースになった。

 政策に違反して生まれた子供たちには「戸籍」が認められず、それが認めなければ、進学など社会的な福利は受けられない。それでも、今ではお金で私立の学校に入れたり、私設の病院にかかったりできる時代になったために、軽々とその規制を超えている人たちがいるのは、「壁越え」出産の例を見てもしかり。しかし、そうやって戸籍に登録されていない人たちが約1300万人ほどいるとみられ、全人口の1%未満ながらも大きな数なのは間違いないと、中国国家統計局の局長も認めている。

 特に農作業や跡継ぎを重視する農村では男女比が崩れており、一部の農村ではここ5年間に生まれた子供の男女比は1.5対1、小学校では2対1を超えているところが少なからずあるという統計がある。

 ネット上で行われた調査によると、77.5%の人たちが「一家庭に二人の子供が理想的」と認めており、実際に都会では二人の子供を連れて歩く人たちをちらほら見かける。彼らの多くがお金の力で複数の子供を生んで育て、そして海外へと「逃がして」やるのであれば、この国に残され、また残らざるを得ない人たちはどうなるのか。この時代、「一人っ子政策」はただの出生率の話だけではない問題をはらんでいるような気がする。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米耐久財コア受注、3月は0.2%増 第1四半期の設

ワールド

ロシア経済、悲観シナリオでは失速・ルーブル急落も=

ビジネス

ボーイング、7四半期ぶり減収 737事故の影響重し

ワールド

バイデン氏、ウクライナ支援法案に署名 数時間以内に
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴らす「おばけタンパク質」の正体とは?

  • 2

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗衣氏への名誉棄損に対する賠償命令

  • 3

    マイナス金利の解除でも、円安が止まらない「当然」の理由...関係者も見落とした「冷徹な市場のルール」

  • 4

    心を穏やかに保つ禅の教え 「世界が尊敬する日本人100…

  • 5

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 6

    ケイティ・ペリーの「尻がまる見え」ドレスに批判殺…

  • 7

    イランのイスラエル攻撃でアラブ諸国がまさかのイス…

  • 8

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    コロナ禍と東京五輪を挟んだ6年ぶりの訪問で、「新し…

  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 6

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 7

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の…

  • 10

    ダイヤモンドバックスの試合中、自席の前を横切る子…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story